さだまさし「まほろば」の歌詞について全力で解説


さだまさし屈指の名曲の一つ、「まほろば」の聖地巡礼に行ってきました。
多くの曲を作ってきたさだまさしですが、その中でも最高傑作と名高い作品です。

令和の出展である「万葉集」からの本歌取りと雰囲気を感じるそんな「まほろば」の舞台である春日大社にある「ささやきの小径」に聖地巡礼しましたので、まほろばの歌詞の解釈と合わせて紹介していきます。


    春日山から飛火野あたり ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ

    まずは世界遺産の春日大社にこの旅の安全を祈りに参拝しました。

    春日大社

    春日大社から歌枕で名高い飛火野に向かう途中に、まほろばの舞台である「下の禰宜道(通称ささやきの小径)」があります。

    下の禰宜道のMAP
    地図ではおおよその場所がわかるものの、いざ現地で探してみるとすぐ迷子に。まさに知るひとぞ知る、隠れスポットでした。いくら探しても見つからないので、春日大社の神主さんに場所を訪ねてやっと訪れることができました。

    ささやきの小径の目印
    写真を撮る時偶然、鹿が横切りました
    歌詞中の「泥む夕暮れ」と聴くと、武田鉄矢の「贈る言葉」の冒頭の歌詞「暮れ泥む町の」を思い出します。贈る言葉のリリースが1979年11月1日に対して、さだまさしの「まほろば」が収録されているアルバム「夢供養」は1979年4月10日なので、さだまさしの方が半年早いです。同じ年に似た表現がリリースされるのは何かの偶然でしょうか。

    「泥む」とは泥の道を行くように進行が妨げられることを意味します。(コトバンク
    「贈る言葉」では冒頭で「暮れ泥む街の」と用いられており、それはとても良い表現だと思いますが、後の歌詞には何も繋がっておらず、正直そこだけの歌です。なぜその表現を選んだのかと問われると窮するのではと思います。

    それに対して「まほろば」では後の歌詞でささやきの小径の泥濘み(ぬかるみ)の表現に繋げることで、「泥む」という表現を使ったことに価値が出てきます。

    馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に たずねたずねた帰り道


    馬酔木とはwikiによると『「馬」がを食べればに当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる』とあります。

    2回目の読みを「まよいぎ」と読むことで言葉遊びと共に、道に迷った男女をうまく表現しています。

    馬酔木の森とはもちろん「ささやきの小径」のことです。ささやきの小径にはびっしりと馬酔木が咲いていました。

    ささやきの小径の馬酔木

    ささやきの小径は春日大社の参道から外れたところにあります。探そうとしてもなかなか見つからないところにありますので、確かに迷子にでもならないと辿り着けないと思います。帰り道というのは近鉄奈良駅かもしれませんが、男女の関係の収まる処と考えるのが自然です。

    それもそのはず、ささやきの小径は一本道なので別れ道はないのです。

    ささやきの小径の道中

    遠い明日しか見えない僕と 足元のぬかるみを気に病む君と


    男女のすれ違いが対照的に表現されています。男性は今後の自分たちの行く末を気にしていますが、女性は今目の前の事柄に気を取られていて交わりません。

    結ぶ手と手の虚ろさに 黙り黙った別れ道


    別れを考えている時は手を繋いだ感触が変わるそうです。
    出展は思い出せず、検索してみたがあまりヒットせず、、、眉唾ですが。

    手をしっかり繋いでいる時はお互いが目指す方向が同じ時です。虚ろになってしまっているのは、目指す方向が異なっていることを暗喩しているのでしょう。

    黙ったとありますが、相当気まずくなると思います。そのはず、ここささやきの小径は、とても静かなんです!春日大社に訪れる人はまず通らない道ですので、人がほとんどいません。聞こえるのは動物の鳴き声と風音、葉擦れです。妻と歩いたのですが、妻の呼吸音が聞こえたぐらいに静かです。

    そしてこの道は男女の別れの道になるのです。先ほども指摘しましたが、ささやきの小径は一本道なので、物理的な別れ道はありません。

    川の流れは 淀むことなく 泡沫の時 押し流してゆく


    鴨長明の方丈記の本歌取りです。『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』
    なぜ作詞する時に方丈記の一説を取り入れようとしたのか。その発想は常人の域を逸脱しています。根本にあるのは仏教観で、この「まほろば」に仏教の諸行無常の考えがあることをこの歌詞が伝えています。

    昨日は昨日 明日は明日 再び戻る今日はない


    「昨日・京・奈良、飛鳥・明後日。」というさだまさしの曲のタイトルはここのフレーズから思いついたんじゃないかと思います。勝手な思い込みですが。

    奈良もかつては京でした。しかし時の流れとともに奈良の時代は終わりました。一度過ぎ去ってしまった京は戻ることはないという奈良の舞台のことを歌っているのかなと思います。今この時が大事という意味に加えて。

    例えば君は待つと 黒髪に霜の降る迄


    「まほろば」の歌詞で最も大好きなフレーズです。なんて素晴らしい歌詞なのかと思えば、これも万葉集からの本歌取り。

    87 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに     
    89 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも
    ー磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)
    磐姫皇后はとても嫉妬深い女性と言われており、この歌から君(仁徳天皇)への嫉妬が伝わります。特に「わが黒髪に 霜の置くまでに、霜は降るとも」は、とても冷える夜明けまで待っているというだけではなく、綺麗な黒髪が白髪になるまで待ち続けるという女性の執念深い想いが表されています。

    それを歌の女性の想いに引用することで、男性に対する強烈な気持ちを感じることができます。これ以上の想いを表現する方法を無教養な私は到底思いつくことができません。

    なぜこの歌をさだまさしは知っているでしょうか。この時さだまさしは27才ぐらいです。
    国文科の人なら万葉集を読んだことがある人は少しはいるかもしれない。しかし、さだまさしは國學院の法学部。しかもバイト三昧であまり出席していない。万葉集なんて学校の学級文庫にはない。まして図書館に行ったところで万葉集を読もうとする学生はいるのでしょうか。現代ではそういう学生を奇異の目で見られて迫害でもされそうですが、そういう学生ほど大切に扱うべきだと、さだまさしの歌を聴くとそう思います。

    待てると云ったがそれは まるで宛名のない手紙


    「まるで宛名のない手紙」とは何かというのは、さだまさし好きの人は度々議論されますが、有力なのは、宛名がない手紙→便りが届かない→頼りがない(便りがない)という洒落です。

    ここの歌詞の女性の黒髪に霜の降る迄待つという力強い信念にも感じられるこの想いは諸行無常。今この一時だけの想いで、白髪になるまでもなく、すぐ心変わりするだろうという諦めにも似た男性の想いが読み取れます。虚しさを感じるぐらいに、バッサリと女性の想いを切り捨てるのは悲しいですね。

    このような心変わりを嘆く歌は「まほろば」以外にも「都府楼」などで触れられています。

    寝ぐらを探して鳴く鹿の 後を追う黒い鳥鐘の音ひとつ


    情景描写がなんとも素晴らしい2番の出だしです。目を閉じれば情景が浮かび上がると思います。しかもどれも奈良を象徴しており侮れません。
    鹿はもちろん奈良の代名詞とも言える存在です。至るところに鹿がいます。奈良の景色の一部となっています。

    春日大社の鹿もお辞儀しました

    後を追う黒い鳥はもちろんカラスです。ただのカラスではないです。奈良を代表するカラスといえば八咫烏です。奈良には八咫烏神社があります。神武天皇を熊野から大和へ道案内をした鳥を言われています。

    奈良の鐘の音といえば法隆寺ですね。柿食えばなんとやらです。

    このようにただ情景を描写するのではなく、奈良に所縁のあるものを取り上げることで、より濃い情景になることに関心させられます。

    実は鹿が鳴く時は寝ぐらを探す時ではなく、求愛をする時だとか。

    馬酔木の枝に引き結ぶ 行方知れずの懸想文


    懸想文とは恋文のことです。ここで言う懸想文は恋文に似せて縁起を祝う文が書かれているお札で良縁が得られるというものです。しかし、この歌の男女関係では良縁を得られるお札も行先を無くし、迷子になってしまっています。

    この引き結ぶという表現はいいなと思っていて、ただ結ぶよりも、動作がイメージできると思います。

    二人を支える蜘蛛の糸 ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸


    芥川龍之介の蜘蛛の糸に例えた表現です。さだまさしの特徴としては、表現に動きがついていて、イメージしやすいことが挙げられます。ただ白糸と言うのではなく、ゆらゆらと心もとなく揺れていて、尚且つあまりにも頼りない本当に細い糸ということが浮かびます。

    君を捨てるか僕が消えるか いっそ二人で落ちようか


    蜘蛛の糸の話では地獄に落ちた主人公が生前、蜘蛛を殺さなかった行為に対して天界の仏様が情けを主人公に与えて蜘蛛の糸を垂らします。その蜘蛛の糸を辿れば地獄から救われて天国にいけるというものですが、何分卑しい主人公は、その蜘蛛の糸に群がった他の地獄に苦しんでいる人たちのことを蹴落そうとしてしまいます。その行為に嘆いた仏様は蜘蛛の糸を切ってしまい、誰も地獄から天国に行くことはできないという話です。

    まほろばの歌では、蜘蛛の糸に例えて蜘蛛の糸の主人公のように女性を捨てて自分だけがいい思いをするのか、それとも自分を犠牲にして女性を助けようとするのか、はたまた二人で心中して平等に辛い思いをするのかという選択肢しかない当たり救いがありません。肝心の二人で助かるという選択肢が出ないあたり、本当に道に迷っています。蜘蛛の糸でも仏様が願っていたのは、みんなで助かろうとすることだったのかと。

    時の流れは まどうことなく 泡沫の夢 押し流してゆく


    1番の歌詞から川→時、時→夢に変わっている対句です。方丈記の泡沫とは人間のことです。迷っている男女とは対照的に、時の流れは寄り道をすることもなく一直線に人の夢を終わらせます。

    昨日は昨日 明日は明日 再び戻る今日はない


    諸行無常を強く感じます。

    例えば此処で死ねると 叫んだ君の言葉は 必ず嘘ではない けれど必ず本当でもない


    とんでもない覚悟をこの女性から感じます。しかし1番の歌詞の時と気持ちは変わらず男性はバッサリと切り捨てます。養老孟司だったか内田樹だったか覚えていませんが、人間に裏の顔なんてものはなく、常に見えているものが本性だと本で語っていたのを思い出します。人が心変わりをするのは、過去の自分が嘘を付いていたわけではないと。此処で死ねる!という女性の思いは決して嘘ではなく本心からのものです。しかし、時間が経てば気が変わってしまう。その思いは永遠を約束するものではない。この世の全てのものは時によって終わってしまうという諸行無常の悲しみが表現されています。

    日は昇り 日は沈み振り向けば 何もかも移ろいさって

    太陽は常に同じ空にはありません。時が経つ毎に太陽は動きます。太陽が昇り、沈んだ回数が多いほど時が経っており、無常観を掻き立てます。

    青丹よし平城山(ならやま)の空に満月

    青丹よしとは奈良にかかる枕詞です。
    青丹とは、諸説あります。青色(緑色)、朱色のことを言う説もあれば青土のことを指す説もあります。辞書では青土を取り上げているものがほとんどですが、調べると薬師寺の人は青色と朱色のことを指しているという説をとっているみたいですね。奈良にかかるのであれば、その美しさを表現する朱色の説が良さそうです。

    そしてここでまた無常観が現れます。平城山と書いて「ならやま」と読みます。
    平城京では「へいじょう」と読むのに、山がつけば「なら」に読み方が変わります。平城京もかつての人たちは「ならのみやこ」と読んでいました。しかしその読み方すら不変ではなく、現代の人は「へいじょうきょう」と読みます。青丹よしという枕詞と平城山という言葉だけで、時の移ろい、無常観を表現しているのです。

    そして今まで散々無常観を表現してきた中で、歌の男性が求めてやまないものが平城山の空に浮かび上がります。たとえ1000年の時が経ち、景色が変わっても、1000年前の人たちがみた満月は今も変わらず残っているのです。

    仏教の無常観では満月ですら終わりがあるとされますが、人の世からすれば不変と感じる長さになるものでしょう。

    ちなみに、この歌の男女が迷いに迷ったささやきの小径の先には志賀直哉の家があります。





    さだまさしの曲はAmazon Musicで聴き放題

    Amazon Musicにさだまさしの歌のほとんどが入っていることを確認しましたので、 さだまさしの歌を楽しむのであればAmazon Musicをおすすめします。

    コメント

    1. さださんのファンというほどではありませんが、中学か高校の頃、クラスメートに誘われて行った八王子でのコンサートで、さださんが最後に演奏したのを覚えています。ユーチューブで久しぶりにまほろばを聴き、今さらながら歌詞の意味を知ろうとグーグルで調べているうちにたどり着きました。解説ありがとうございました。記憶に間違いなければ、連れていってくれたクラスメートは東大の先生になっています。

      返信削除
    2. 素晴らしい解説ありがとうございます。
      1つ質問があります。

      「寝ぐらを探して鳴く鹿の 後を追う黒い鳥 鐘の音ひとつ」
      この鐘とは、法隆寺ではないと考えます。
      法隆寺と春日大社は、車で小一時間かかるほど離れています。
      おそらく、お隣東大寺の「奈良太郎」という大きな鐘の事では、ないのでしょうか?

      返信削除
    3. このコメントは投稿者によって削除されました。

      返信削除
    4. 遠い明日しか見えない僕と 足元のぬかるみを気に病む君と

       失礼ですが、此の名文の解釈に僅か二行は残念。
       此処で男性が見ようとしている「遠い明日」とは、彼の夢、希望そのものであり、決して予定調和に描ける様な今後の行く末ではないと思います。また、女性の気に病む「足元のぬかるみ」とは単なる目の前の事象などという近視眼的なものではなく、生活という現実なのです。来るか来ないか、掴めるのか掴めないのか確証のない夢と言う「遠い明日」に縋る男性に対し、それを支えたいと思いながらも、此の儘では何れ成り立たなくなる現実の生活を女性は憂いているのです。ですから次の部分に深い意味が生まれる訳です
       
      川の流れは 淀むことなく 泡沫の時 押し流してゆく
      時の流れは まどうことなく 泡沫の夢 押し流してゆく

       川の流れによって目に見えない時の流れと言うものが可視化され、目に見えるものとなった時の流れは、届くか届かないか判らないあやふやなものでしかない「夢」を残酷にも流し去ってゆく。夢を叶えたいと思いつつも、男性にはもう時間が残されていません。そして家庭を考えるなら女性にもまた時間は余り残っていないのです。諦めなければ夢は適うと言えるのは実は夢を得られた幸運な人だけで、手が届く人はごく一部なのです。時間は望むと望まざるとに関わらず、夢に終焉を用意しているのです。

      返信削除

    コメントを投稿

    人気の投稿