深い歌詞と浅い歌詞の違いについて<五感から考察>
最近の曲は薄っぺらい、浅い曲だなーなんてつぶやいている人がいると思います。
だけど、逆に深い歌詞って何?薄っぺらい歌詞って具体的になんだよ!って思う人もいるかと思います。
そこで個人的に思う深い歌詞と浅い歌詞の違いについて説明してみようと思います。
予め断りを入れますと、浅い歌詞だからといってその曲が駄曲であるという訳ではありません。
自分が良いと思った曲、好きな曲が名曲、神曲です。他の誰がなんと言おうと自分の価値観を曲げてはいけません。
そしてタイトルみて「歌詞」じゃなくて「歌詩」だろー!!と思った人は立派なさだまさしマスターです。
だけど、逆に深い歌詞って何?薄っぺらい歌詞って具体的になんだよ!って思う人もいるかと思います。
そこで個人的に思う深い歌詞と浅い歌詞の違いについて説明してみようと思います。
予め断りを入れますと、浅い歌詞だからといってその曲が駄曲であるという訳ではありません。
自分が良いと思った曲、好きな曲が名曲、神曲です。他の誰がなんと言おうと自分の価値観を曲げてはいけません。
そしてタイトルみて「歌詞」じゃなくて「歌詩」だろー!!と思った人は立派なさだまさしマスターです。
深い歌詞と浅い歌詞の違い
私の回答は歌詞の深さ=情報量/文字数だと思っています。
いきなり何言っているのこいつ?となりますが、解説します。
前提として「深い」、「浅い」は形容詞なので程度・度合いで語られるものであり、
単独で意味を持つものではありません。
仏教の縁起の法ではそもそも全てのものに本質は存在しないとしていますが、
本筋からずれるので割愛します。ただ、さだまさしを語る上で仏教は外せないので
頭の片隅に入れておいてください。
文字数は定量的なので自明ですが、情報量はわかりにくいかと思います。
基本的に人間は情報を五感(五根)で受け取りますのでこの五感が肝になります。
すなわち
・視覚
・聴覚
・嗅覚
・味覚
・触覚
です。
情報量とは言い換えるとこの五感の量ということになります。
深い歌詞とはこの五感の情報が多いのです。
例えばさだまさしの名曲「指定券」を例にとります。
♪もうこれまでねと 君は俯いて
ひだりの頬だけで ひっそり笑った
北口改札を 子鹿のように
鮮やかに鮮やかにすりぬけて出て行った♪
(https://www.uta-net.com/movie/65481/)
この冒頭のフレーズだけで主人公の置かれている状況、相手の動作、主人公の立っている位置、場所、季節などを読み取ることができます。
『もうこれまでね』 というセリフから、主人公の置かれている状況は「別れ」ということがわかります。ただの喧嘩別れではなく、今まで二人でなんとか頑張って来たけれど、もう無理なところまできてしまったというような感じがこの7文字から推察することができます。
『君は俯いて」から、上記の別れは相手にとっても悲しい出来事であることを補足しています。そして素晴らしいのは次の『ひだりの頬だけで ひっそり笑った』です。
ひだりの頬というフレーズからわかるのは、主人公は相手の左側に立っているということです。そして主人公から見えている笑っている表情はあくまで表向きのものであり、本心ではない、わからないということが読み取れます。
もしこれが『笑った』だけだったらどうでしょうか?
相手の心境はちょっとわかるかと思いますが、本心ではないのでは?ということがぼやけるかと思いますし、主人公が立っている位置がわからないので、相手の表情、輪郭を掴むことができません。視覚の情報量が大きく減ります。
『北口改札』からさらに主人公の居場所は駅構内から外に向かっているということがわかりますし、『北口』や『子鹿』というフレーズからなんとなく秋か冬かなということがイメージできるかと思います。鹿の季語は秋なので。鹿の子の季語は夏ですが、ここでいう子鹿は大きさのことを例えていますから、秋で良いかと思います。
このようなフレーズから肌寒さ、触覚を得ることができます。
さらに『鮮やかに鮮やかにすりぬけて出て行った』から、具体的な動作が見えることによって、どのように改札を出て行ったのかがわかります。
このフレーズがないと、相手の動きのイメージが聴いている人に完全にお任せとなってしまいます。
このように短い文字数の中で得られる情報が多い歌詞=深い歌詞と言えるのではないかと思います。
歌詞を深くするもう一つの要素「対比・比較」について
もうひとつ情報量を増やす要素として重要なものがあります。
対比・比較はかかせないものです。
先ほど仏教の縁起の法によると、全てのものに本質はないと説明しました。
縁起とは簡単にいえば他のものに依存するという意味で、他者・他のものの存在なしでは
物事を捉えることができないということを意味しています。つまり単独では本質を持たないということです。
例えば、携帯電話は電話という存在があって携帯電話と認識されます。
電話がなければ携帯電話は電話と認識されます。
赤色や青色、黒などの色も他の色が存在することによって認識されるのであって
もしこの世に赤色しかなければ色の存在を認識することができないはずです。
このように物事を捉えるためには他のものと比較することが重要です。
この点については次回解説をしようと思います。
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